”地球に踊る”

SUMAKO KOSEKI 古関すまこ の舞踏
DANCE ON THE EARTH ― BUTO of SUMAKO KOSEKI

NEW!!
サイトを公開しました(2015年5月23日)
”地球に踊る”便り(1)(2)をトップページに掲載しました(2015年5月23日)
5月・6月のワークショップ開催予定をワークショップ案内に掲載しました(2015年5月23日)


チェコの森で、クレタの海辺で私たちは舞踏の子供のように踊った・・・。
どこの国にも大地と空と海に呼びかけ、祖先の魂と共に踊ろうとする人たちが居る。

舞踏の発生は《日本の風土や死生観》であり「死者やカッパやテングと一緒に生きて」いたニッポン人。でもあれから60年・・・。「暗闇こそ一番光が見える所」(土方巽)として閃光を求めようとした舞踏のパワーが、薄暗く奇怪な自閉と誤解されがちなふるさと・今の日本・・・。

足裏から気を吸い上げる。地球という惑星の大きな大地の声を聞きながら舞踏しよう、という意味を込めて“地球に踊る”のHPを立ち上げました。
ハイテクな日本に比べて素朴さを残しながら、(かつての)日本の心身の在り方を真摯に求める海外の人たちとの出会い、また「スマコ・コセキ、その幻視者の踊りはミショーの《内にも外にもある空間》」(ル・モンド紙1993)、と文化のフトコロの深さの中で私の舞踏を育ててくれた、30年を過ごしたフランスにも感謝しつつ・・・。
新しいnewsも続きます。どうぞご愛読いただき、また国内外のワークショップを体験してみて下さい。

自然本来のカラダ・太古の生命力・子供の自由な創造力・動物の感覚を
回復する豊かな世界へ!



English
Beyond our rational mind, BUTO(Butoh、Butô) opens the door of larger and deeper dimension of our being. Thus, it will guide us toward our ancestral memories which was the origin of the dance and theater in ancient time.
BUTO is also “the Dance on the Edge” (term on Hijikata’s Buto) where expressions and movements find themselves by emergency and vital necessity. Then depersonalized interpreter can incarnate various beings and states.

 

 

“地球に踊る”便り(1)2015年3月- クレタ・ワークショップ

海が寄せて返す。その海と呼吸する。水平線から呼び込むように息を吸ってまたそこまで返すのだ。新体道の一環の動き。普段室内のダンス教室では「水平線を想像して」と言っているが、ここは本物。波音もマイナスイオンもヨードもあるから細胞全体に直接訴えるタラソセラピー。そう言えば「タラソ」という言葉もギリシャ語だったっけ。クレタとは縁が深い。1980年当時、ようやくパリで舞踏家としてのスタートを切り、私生活でも結婚・出産を経て、ひと息つきに来た。完全に透明なエーゲの海。アフロディーテの海の底の軽やかな砂の舞いのきらめきを今でも覚えている。その後パリ在住のクレタ出身ダンス教師エフィにフェスティバルに呼ばれたのが、長年続くことになるクレタとのつきあいの始まりだった。1980年から2005年までの私はパリに住み、若き日のソフィー・マルソーの相手役Ph.レオタールと『聖餐の城』(B・ノエル作)で共演、また憧れのジャン・ルイ・バローやカミューの仲間C.セレルスとの共演(ミショー作『影の空間』)、さらに日本人としては初めてフランス演劇の殿堂コメデイー・フランセーズの仕事…と、身に余る有難いことが続いたが、ある意味それらはパリという物見高い《文化市場》での出来事。そんな中でクレタはずっと清らかな別世界であり続けた。波が寄せて返す。その動きと音に体をゆだねる。一日5時間6日間のワーク。毎日少しずつ参加者たちは変わっていく。ある人はワークショップ中に泣きだし、またある人はこれまでに見たことのない強い夢を見たという。内と外を隔てていた扉が開き、壁が崩れているのだ。(つづく)

“地球に踊る”便り(2)2015年5月- ケスクセ・ク・ル・“ブトー”?

フランスで舞踏の活動を始めた80年前後は、グロトフスキー、ピーター・ブルック、カントール、ピナ・バウシュなどの今や演劇・ダンス界のレジェンドたちがまだ若いエネルギーで活躍していた。(ナンシー・フェステイバルでは上記大物が一堂に会す場で私たち「舞踏社」も―私はまだペイペイのシンマイだったがー踊った!)
そのころから何度も受け続けてきた“ケスクセ・ク・ル・ブトー(舞踏って何)?”の質問にはいつも戸惑う。「スローモー?でもあなたの踊りには速いところもあるし」「オドロオドロシイもの?でもあなたにはきれいな瞬間も滑稽で笑っちゃうところもあるし…」などなど、そ、そういう次元の問題ではないんだけど何から話し始めたらいいのか?!。
フランスではサンカイジュクの整然たる日本美から舞踏を知った人が大半で、その人たちがヒジカタの飛んだり跳ねたり、まさに《空っぽの絶えざる入れ替え》ダンスに接し、「えっ、これがブトー?!」と驚き、また「ヒジカタと対照的にオーノは敬虔なクリスチャンで…」というようなコメントのビデオが出回って、《善か悪か問題》などに取り込まれたりして・・・東西ともによくある表層的な質問にどう答えようか、と切り口を探し続ける私の脳裏にはなぜか大脳の図が浮かんでいる。

ハチュウルイノウ、という言葉が私は好きだ。そのことを考えると舞踏を巡る混乱が一挙に収まる。つまり新皮質というニンゲンだけが巨大に発展させてしまった頭脳で舞踏を理解しようとすると、足をすくわれるのだ。そことは全く違う次元に飛んで、爬虫類脳の、食べる・交尾する・オソワれたらオソイ返す、もしくは逃げる、という崖っぷちの反応、皮膚感覚・匂い・音・細胞感覚・・・私たちの命のふるさとのプリミティブな声に耳を澄ますと、違う世界が開けてくる。
土方さんが「飼いならされた」と表現する社会的通念のコントロール。それをはずした深く広い次元、太古のメモリーにも続く扉の向こうに舞踏はあるので、それは場合によってケモノの俊敏さ、石の不動、精緻な形、イビツな姿と変幻し「クジャクのように輝かしく羽を広げる時もシッポを巻いた犬のようなミゼールもある。美か醜か・緩か急か・善か悪かなどのニンゲン的価値観でどちらかに舞踏を仕分けしようとする、その大脳新皮質的フンベツをまさに超えることが舞踏で… 」というようなことをしどろもどろ答えるときの私の脳裏にはなんとなくハチュウルイノウの図が浮かんでいる。

「脳が考える脳」柳澤桂子より